白珠の巫女------STAGE3 露見

 走る、走る、決して止まる事無く、己の限界すらも容易く超え、走り続ける。何時しかこの脚は麻痺を覚え、疲れすら如何でも良くなり始めている。口は唯ひたすら呼吸にのみ徹し、臓物は役目無く揺さぶられ、心臓は忙しなく鼓動を刻み続けている。俺が止まる事を、この肉体はとうに諦めた。一方で頭は、休め止まれとつぶさに呟く。あんなに開いていた眼も、苦痛に歪ませた顔と共に閉じ掛かる。眠りたい、このまま止まって、休んでしまいたい。だがそうすれば、この静か過ぎる森の中で、俺は永久の眠りに就かねばならぬのだ。
 不意に、体が宙に舞う。歪に隆起した木の根に、縺れた足が引っかかった。身体はそのまま木の臭いの染み付いた大地に被さる。
「情けねえ様だな」
背後からの声。其れに押されるかのように、倒れた身は直ぐに起き上がった。何故?未だ死にたくは無い、遣り残した事は五万と残っているのだ。
――死にたくは無い。
 澄んだ空気の木漏れ日の森、小枝は何食わぬ顔で行く手を阻む。それでも、鳶飛は生きるために走った。




「・・・・・そこで先生は俺の門出を祝い、その御身離さず大切にしていた伝説の名刀、『七星剣』その七本の内、何と三本も俺に任せて下さったのだ!何と言う栄光、何と言う名誉・・・。お前なんぞの田舎武者では一生拝めぬ品だぞ、屏陣丸」
「はいはい・・・・」
「嘗て頑駄無軍団の武者が先生の七星剣を譲って欲しいと出向いた時、先生は断った。だが、先生は俺にその剣を譲ってくださったのだ!なぜか分かるか、屏陣丸?
・・・・それは俺が道場始まって以来の天才だからだ。フハハハハハ!」
(唯の弟子馬鹿じゃないのか・・・?)
 晴れ渡る空に突き抜ける笑い声。面白いくらいに見事何も無い小道を、唯漫然と、歩く。鳥のさえずりも風の囁きも、初めは赴き深い物もあったが今はとうに飽きた。先ほどから同じ話を繰り返す相方、この男は先週道中で知り合ったのだが、に適当に返事をしているのさえもう下らなくなって来た。其の背に自慢の『七星剣』とやらの三本を挿し、いかにも“武者”といった煌びやかな真新しい鎧を誇らしげに着、いけ好かない笑顔で此方を見る。自分の、唯白一色で染められた味気ない安物の鎧や刀とはまるで違う、ちゃんとした品々。その悔しさを胸に下がる首飾りの“勾玉”、昔偶然拾った大切な一品、を触る事で紛らわす。自分は所詮は、田舎武者。
 自信過剰云々、其の言葉で片付くようなこの男の気質に、ほとほと疲れているのだった。
「破亜民我夢までは後どれ位だろうな、屏陣丸」
「あと二週間、といったところじゃないか?」
「そうか、あと二週間・・・・いやはや楽しみだ!早く大将軍様の御前でこの、天才剣士・剣舞の剣技を披露し!あの憧れの頑駄無軍団の一員として温かく迎えられ・・・!」
(その性格じゃあなあ・・・・)
「何か言ったか?お前も一緒に入団出来たら良いな・・・・ああ、お前は機動烈士隊を目指してるんだったな。『大将軍の道楽組』とは、お前も物好きな奴だな」
「ほっとけ。あのなあ、機動烈士隊の方々は頑駄無軍団にも負けじと劣らず、寧ろそれ以上の実力者揃いで・・・・・!」
「そんな猛者達の一団にお前の様なぺーぺーが入れると本気で思ってるのか?第一、月謝だって物凄く低いのだぞ、あそこは」
「・・・・・・」
 何かと、この男と話していると疲れる。威風堂々自信満々に話すこの口調に腹が立つのは尤もなのだが、尚、自分が無知で無能のように実感させられるのだ。剣の腕も、世間の良識も、この男には遥かに及ばない自分がいる。所詮は田舎の三流武士の子、何もかもが
三流で、何処までも三流なのだと、自分のくだらなさと向き合うのが嫌で嫌で仕方ない。唯一この胸の“勾玉”が匂わす高級感に、つかの間の安堵を覚える位しか出来ない自分が情けない。
 自分と剣舞は、一週間前、互いに行く先を同じとする道中で出会った。つまりは二人とも、新たに城仕えの武者に成る事を目指し、烈帝城城下町・破亜民我夢に向かっているのである。
この剣舞という男は、名の有る道場(聞いた事は無かったが)で“天才”と持て囃されている男で、自分と同い年にも拘らずあの名門・頑駄無軍団入りを目指していた。口と態度に問題はあるが、根は真面目で何と言っても腕の立つ男で、本気で入団合格を勝ち取ってしまいそうな勢いなのである。そうなれば恐らく史上最年少、という事になるのだろうか(良く分からないが)、そうなれば彼の師も躍起になるのは分からんでもない。
 自分はといえば、先にも述べたように北の国・緋州の田舎武者の田舎息子、特に際立つ能力も無ければ、金も物もコネも無い、世間知らずの田舎者である。正に剣舞とは対照的と言えば対照的であろう。誰からも期待されず、寧ろ反対を押し切って、唯この胸一心に『正義の為に生きる』という中途半端な志を抱え、悪名高い『機動烈士隊』目指して単身旅に出た、郷土の恥・変わり者だ。
「破亜民我夢か、きっと女子もさぞ・・・・いやあ楽しみだな屏陣丸!」
「・・・・あ」
にやけた顔を、違うように歪ませ訝しがる。如何したと問うたので、
「宿に“証明書”を忘れてきた!之じゃ城に入れない!御免、急いで取ってくる」
「・・ああ!!どうしてお前は其処まで阿呆なのだ?!もう良い!置いて行く!先に行ってるからなこの田舎武者!!俺は一刻も惜しいのだ!!」
「分かった分かった、後で追いつくから先行ってろ!」
 やってしまった、自分自身が本当に情けない。溜息も出尽くしたはずなのに未だ出やがる。宿までは二里と少し、どの位掛かろうか?剣舞とはぐれる、まあ其れは其れで清々するが、兎も角急がねば。涙ぐみながら、走る、走る。鎧も刀も脱いでしまいたいが、そんな訳にはいくまい。
「ったく・・・田舎者はこれだから・・・」
 消え行く背を眺めて、剣舞が呟く。



 鳥の囀りも、この陽気も、何もかもが恨めしく、一方で如何でも良い。唯今はこの樹の陰に身を隠し、音も立てず呼気を吐き、吸い、朽ち果てそうなこの身体を休ませる事に全てを注ぐ。嫌な位に膨らんでは萎むこの胸、肺は全身全霊をかけて酸素を求めている。気違えたかの様に心音は激しい鼓動を繰り返す。死にたい、いっそ死んでしまいたい。何もかも失い、これからもそうなるだけだというのに、自分は未だ死ねないでいる。今だこの世に、未練がある。
――死にたく、無いのだ
「さあさ皆様お立会い、さあさ皆様殺し合い。・・・ま、観客零、だけどよ」
 一瞬、心音が止まった心地さえ覚えるその声。疲れている事さえも如何でも良い、唯無意識に身体は動き、立ち上がる。振り向き様に見える黒と暗赤の混じった服装の男、其れは、『死』。
 大刃の小太刀ダガーを手の上で遊ばせながら、男は表情一つ変えずに歩み寄る。思わず逃げるように脚を引く。危険だとか恐怖だとか、そんな次元でなく、この男は『終り』なのだ。冷えた目、裾の荒れた黒服から覗く暗い赤。全てが『終り』で何もかもが『終り』のこの男。
「逃げる。其れがどんなに無意味な事かお前は良く知っている、だろ?『歪矢礼手ワイヤレス』の鳶飛」
 返す言葉は、見当たらない、出てこない。口は今は食い縛るためだけにある。気付けば既に顎先に切り傷を受けている。
「何故お前が御頭を殺したか、何故『吟喃』から逃げるか、そんな事は如何だって良い。唯、皆が皆キレてるって事は分かるな?だから猟雅や邇蔓の他に俺でさえ裏切り者を追う。お前は皆を敵に回した。だからせめて詫びろ、死を以ってな」
「違う!!暗空、俺は、俺は殺しちゃいない・・・・」
「だからそんな事は如何だって良いし、聞きたくも無い。唯死ね、それでいい。事実お前は『吟喃』から逃げたのだ、それで十分、死罪ものだろ?」
 辛うじて小太刀が動いたのは分かったが、其れは認知して避けるという段階には至らない。頭で理解するよりも尚早く、この身に傷が刻まれる。
 暗空は懐から、懐中時計を出すと、
「お前を追ってもう半刻。『紅き竣功』にしては時を掛け過ぎた、な。さて、」
小太刀を持ち直す。
「終いに、しようか」
こんなにも晴れ渡っているのに、見上げる空はこんなにも暗い。



 眼の前に広がる深い森。何処まで続くのか、道はその森を避けるように大きく右の方に曲っている。見れば、うねりうねって遠回り。
(此処突っ切った方が早いかな)
 息を切らして昨日の宿に至り、捨てられ掛けた“証明書”を何とか手にし、再び走り出した頃にはもう剣舞の姿は無かった。予想通りといえば予想通り、決して人を待つことの出来るような男ではないのは分かっていたので、期待などさらさらしてはいなかったものの、こうもはっきりと置いて行かれると変な寂しさが残る。肩透かし、されてはいないが似たような感覚。
森の中。疲れと共に虚無の混じった溜息を吐き、手に握り締められた“証明書”を眺める。其処に書かれた「緑縁流免許皆伝・屏陣丸」の文字、知り合いに書いてもらった嘘八百の肩書きである。木漏れ日が、綺麗に差す。
(緑縁流って何だよ・・・・)
 城に行くには、コネが無ければ、とは言ったものの所詮は北方緋州の外れ町、名のある武者も何にもいやしない。結局自分は田舎侍、それでも自分の“正義”というものが何処まで通用するものなのか、試してみたい。たとえ、名も腕も無くとも。
(だから、)
 だからこそ、限りなく零に近い可能性を信じるしかないからこそ、機動烈士隊を目指す。自分よりも身分など遥かに下の郷士出身の浪人集団、それが現役の武者たちに劣らず、寧ろ遥かに凌駕した力を見たのが半月前、十五の年を迎えた冬のある日。それ以来、覗き穴から見た狭い道は、急に大海原へと姿を変えた。「自分も貴方のように成れるか」、自分の問いに、隊長だと言う自分と七つも変わらぬ浪人は笑いながら答える。「決めるのは、御主であろう?」身分も、何も、関係ない。自分のような人間にだって、きっと――
(でも、要は実力がないとなあ・・・・)
 気持ちだけは一丁前、けれど腕前は覚束ない。現実なんてそう甘くは無い。兎に角、先を急がねば。隆起する樹の根を避けて歩かねばならない分、歩き辛い。近道は遠回り、どうやら失敗だったか。溜息は尽きない。
「上手く、行かないもんだなぁ。ハァ・・・・・・ァ?」
と、

全てが止まる。
思考・視界・音・呼吸、全てが止まる。

苦痛と恐怖に顔を歪ませた、自分と同じ歳位の若人、それが今、暗赤を纏った長身の男に大刃の小太刀の先を向けられている。戦慄、とはこういうものなのか、電撃に似た何かが足の先から全身を震わす。
 あの若者は殺されるのだろうか。状況からすればそうなのだろう。彼の茶を基調とした鎧、だがそれは、長い事こびり付いた彼の“血”なのだと知る。
血、息、苦、恐怖、吐気、憎悪、震え、拒絶、衝撃、死。
血、息、苦、恐怖、吐気、憎悪、震え、拒絶、衝撃、死。
見てはいけないものを見たのだと思う。覗いてはいけない世界の裏のその裏。表に出ない、汚く悲しく恐ろしいもの。それを今、自分は見てしまったのだ。
「ぁ・・・・・」
 声は出ない、出せない。出せば、自分はどうなるのだろう?男の刃は今だ若者を狙い留まる。男は笑わない、絶対に。刃の先は胸を向く。心臓。即死。
彼は死ぬのか?
声を出せば、自分も殺されるのか?
彼は何をした?
彼は何かを叫んでいる。
「俺じゃあ・・・俺じゃあない!!」
彼は何をした?
彼は何かを叫んでいる。
真実なのか?嘘なのか?
如何あれ、信じてもらえないのは、辛いだろうな。自分ならば、耐えられない。
――俺の正義って、何だ?
 そう思った。
「止めろ」
身体は意識なんて無視して動く。こんなにも怖いのに。こんなにも恐ろしいのに。さっきから体の震えは止まらないのに!
 何時しか声を上げ、抜かれた刀の先を男の方に向けていた。安物の、しょぼくれた鈍ら。
「ん。カタギか、お前?」
「・・・・止めろ!彼を・・・殺すな!」
 非常に滑稽な様態だろう、懸命に声を上げながら、膝は悲痛なほど笑っているのだ。剣先はぶれて一点も止めず。助けに入ったつもりが、あの若者は逆に酷いものでも見るような目で此方を見る。胸の辺りで宝物の勾玉が激しく踊る。
「申し訳ないが、口出し無用と願いたい。之は俺達の私的な問題なんでな。・・・鳶飛、知り合いか?」
「違う、唯のカタギだ、見りゃわかんだろ!・・・おい手前!白い手前だよ!早く此処から失せろ!!」
 あの悲痛な顔を自分に向け、若者は叫ぶ。助けに入ったつもりがまるで逆だ。笑うに笑えない。こんな状況であの剣舞だったら如何するのだろう?お構い無しに天才とやらの剣技でさっさと打ち負かすのだろうか。それは自分には、出来そうも無い。この暗赤色の男は、怖い。こんな自分にさえ解かるほどに放たれた異常な殺気が何よりの証拠。
「・・・・早く!早く失せろって言ってんだよ白いの!!」
脚は動かない。動いて欲しい。最早この身体は自分の物ではない様に、勝手に動いていた。
高ぶり過ぎた感情、極まりすぎた絶望、全てが肉体の指導権を奪う。
「俺の事何か心配するくらいなら、手前の事考えろ!!白いの、手前死にたいのか!?」
そんな事言わないでくれ。寧ろそれは、君に言いたい。
「う・・・・うあああああああ!!!!」
 無我夢中だった。刀振り上げあの暗赤色の男に突っ込む。馬鹿にしたような眼だ、こういう眼は好きではない。男は全力で降ろされた自分の太刀筋を何でも無い様に交わすと、軽く脚を差し出し引っ掛け、いなす。自分はその勢いのまま凸凹の大地に顔を擦らして転ぶ。
 背後に感じる異様な不安、急いで離し掛けた刀を強く握りなおし、身を起こす。変わらず男は此方を見る。それ目掛けて、縦に斬り、横に斬り、踏み込み、突いて――
けれど刃は一向に男に触れようとしない。当たれ、当たれ!悔しさ苛立ち、眼は益々涙ぐむ。男は、それでも両手を下に垂らしたまま、精一杯の斬激を馬鹿でも見るかのようにかわすのだ。雲を掴む様とは、この事だ。
「度胸は認めてやるが、腕は下手糞以下だな、白い侍。・・・鳶飛、俺達『吟喃』、確かにカタギに手を出すのは許されないな。だがこいつは俺に文字通り、刃向かった。もう立派な『敵』だ。故に殺す」
「止めろ・・・・ただの出しゃばったカタギじゃねえか!殺すことは・・・」
「敵は何だろうと殺す、それがこの俺『紅き竣功』の理念。鳶飛、俺はお前の様な口だけの若造を見てると腹が立って仕方無い。俺は殺し屋プロだ、お前みたいな粋がった餓鬼では無くてな」
男は手にした大刃を一旦遊ばせ、持ち直し、その凶器を此方に向ける。振り向き様、小太刀とともに見下ろされる形となった、今この状況を如何見る?
死ぬ、のだろうか。すると如何なる?
皆泣いてくれるだろうか
皆笑って馬鹿にするだろうか
(いやだ!死にたく無い!!)
 暗赤の男からは、自分はどんな風に映っていた事だろう。あらゆる生き物よりも惨めで哀れで滑稽で、仕様の無い無様な格好。潤んだ赤い眼は最早涙を留めておく事は出来ない、眼から血でも出ているのではないかと言うくらいに泣く。
「如何あれ、忠告はした。にも拘らず『吟喃』、それもこの『紅き竣功』の邪魔立てしたって事は、“覚悟”はもちろん出来てるな、白い侍?」
「・・・・彼を・・・殺すな・・・」
 一体、何を言っているのか。自分でも信じられない。今この自分の死が迫っている状況でさえ、あの若者の安堵を気遣う。彼は驚いたように此方の顔を見ていた。当然だろう、自分だってそうする。
「馬鹿なのかお前は?悪いがそれは出来ない。何故ならこいつは俺達の御頭を殺した、逃げた、裏切った。許すにも、許せない。だからこいつには死を以って償ってもらう。
――さて。また時間をかけすぎた。『紅き竣功』の名が泣く。

去らば刹那に 死ぬは誉れと
紅き墓標が其処に建つ
俺は『吟喃』瞬殺専門・『紅き竣功』の暗空」
――終いに、しようか」

気が付けば暗空の刃が、胸目掛け突き進む。ゆっくりと、ゆっくりと、その先は空を切り振り下ろされる。見える、見えている。だがこの身体は対応しない。認識を超えた速さに対し、この身体は動く事が出来ない。ただ見えるだけ、それだけ。死ぬまでの時間が長く感じられる。
之が、最後って奴なのだろうか。
 刃は既に胸の先三寸も無い位に迫ってはいたが、一向に刺さらない。焦らす様に、ゆっくりと、ゆっくりと、止まっているのではないかと思わせるような速度で進む。之が行き着けば自分は死ぬ。死ぬのか。血が吹き出て、いや、その前に鼓動が止まるか。その後は犬にでも食われるのだろうか、鳥だろうか。如何あれ口惜しい、未だ遣り残した事は多い。
あれも、これも、それに皆へ謝らねばならない。ああ、多忙だ。
(短い、人生だったな)
そう思ったとき、急に変な安堵が心に浮かび、そのままそれに任せ眼を瞑る事にした。
さようなら、皆。眼の前は、真っ暗だ。


「・・・・・・!!!」
其処にいる三人が三人、息を呑んだ。恐らくは屏陣丸が最後であったろうが、ともあれ全員が眼を丸くする。
「お前・・・・!!」
 今だ突き刺せない小太刀、暗空はその事に苛立ち、寧ろ驚きを隠せなかった。わなわなと柄にもなく刃先を震わせ、人一人殺せないでいる。瞬殺に誇りを持っていた自分だけにこの時間は狂おしい。

 屏陣丸の胸の上、首から掲げられたその勾玉から出た『手』が暗空の腕を握り止める。

 異様も異様、不気味な光景であった。その腕が一体何なのか、当の屏陣丸は全く検討がつかなかった。自分はてっきり死んだものと思っていただけに、先ずその事を理解するのは時間が必要であった。だが、大切に肌身離さず持っていた勾玉、それが自分を守っている事は、漠然とではあるが理解できる。今、白く光るその首飾り、自分の宝物。
“叫べ”
声がする頭の奥、内側からする声がそう告げる。
 誰だ?自分は、貴方を知らない。
“俺もお前を知らない。だが叫べ、生きたいのならそうしろ”
 尚も声は内側で木霊する。知らない声、だが、良く知っている声。
“叫べ、お前自身が、強く”
暗空は強い眼差しで屏陣丸を睨み付ける。あらゆる憎悪を以って、殺意を持って死を願う。後僅かに動けば息絶える眼の前の白い侍、だがその“僅か”は遥かに厚い壁。
「暗空が・・?」
 唯の素人、でしゃばりの過ぎた見るからに三流の若武者相手に、瞬殺『紅き竣功』が手を掛けすぎている、その状況が鳶飛には信じられない。この隙に逃げる事は出来る、だが不思議と興味は自信の生命より、この場面に向かっていた。
「誰なんだ・・・君は・・・?」
 頭の中の声に告げる。
“今はそんな事如何でもいい。さあ叫べ、『魂融合コンフージョン』と”
「魂・・・融合・・・・?」

刹那に、
刹那に屏陣丸の勾玉が輝きを増す。光は膨れ上がり、ゆっくりと屏陣丸の身体を包み込む。
それはまるで蒸気のような光。
それはまるで風のような光。
急に握られた腕が放されるも、暗空の小太刀が捕らえたのは心臓ではなく柔らかい木の根であった。暗空が見下ろしていた筈の若武者の肉体その身は、その光に混ざり溶け込むように、何処からか湧いた風に乗り、 何時しか自分の前に立っている。
「之って・・・・俺は一体・・・・?」
 自分の体が、自分のものでないように軽い。嘘みたいだ。白い安っぽい鎧の上に輝いた『光の風』が絡みつき、白金に輝く自分の体。例えるならばそれはウインド
 白金の、風。
“いやあ〜、やっぱ自由は良い!いやいやありがとな、えっと〜屏陣丸、だよな、確か?感謝極まりないな本当!”
 頭の中でまた声。先にも況して五月蝿くなっている。
「誰なんだ、先から・・・・?」
“あ?ああ、悪い、悪い、嬉しかったもんでつい。俺は烈魂、お前が大事にしてた勾玉、あれに封じ込められてる天界武者だ。いやあ長かった!協力感謝するぜ”
「天界武者?!何で天界武者が・・・?勾玉・・・?!」
“ま、いろいろあるだろうが後で何でも答えるとしよう。その前にまず此処から逃げようか。お前が死ぬと俺も困るんでな、屏陣丸。さて、少しの間体貸してもらうぜ“
「え・・・・?ああ、うん・・・」
訳も分からず、半端な返事であった。事のどれ位を消化できたのかも疑問である。ただ、体の具合は非常に良い。
 と、そんな自分を激しい眼差しで見つめる暗空。はっきりと解かる荒立った殺気、近寄るだけで死んでしまいそうな、逆立った気。確実に殺す、運びの遅い計画に対する憤り。
「うぜぇうぜぇうぜぇ!餓鬼が、即座即行即死で終いにしてやる!」
 声を放って僅か瞬き、息つく暇なく眼前まで迫る暗空のその身。一言言わせて貰えば有り得ない速度で此方に向かう。見えているのか、見えていないのかそれすらも解からない。ただ何か来る、それだけしか感じられない。空を切って何かが鋭く差し迫る。刃、大振りの短刀。
「・・・・何で!」
 暗空が口にするよりも早く、倒れたままの鳶飛の口から漏れたその言葉。明らかに人間の認識限界を超えた暗空の本気の動きに対し、刀もまともに振れない素人も素人が、事も無げに、当然のようにその一撃をかわしたのだ。
 何処と無く吹くその白金の風に身を任せて。
「かわせた?・・・嘘!?俺が、あれを?一体如何なって・・・・」
“ふう、思ったよりも良く動けるな。いいぜ、屏陣丸。悪いが未だ実体に戻れないんでな、お前の体を借りるとする。――如何だ『天の御加護』は?お前は存分に動け、俺とお前、二人合わせて二倍、だ”
 自分の物ではない、自分の肉体。風のように軽い、自分の肉体。理想通りに腕は伸び、想像以上に地を蹴る事が出来る。動きたい、この身体で動いてみたい――
 即座に再び振りかかる暗空の小太刀。
(これって・・・)
 不思議に体が対応する。死ぬ事よりも、当たらない事が当然に思えるように、極自然に身を避ける。続けて躍起になった暗空の連激も、何一つ当たる事無く。代わりに、揺ら揺らと自分の体から沸き立つ白い光を刃が切り裂き、事は過ぎていく。先程の自分もこのような感じであったのだろうか、雲を掴む様だ。
 ほぼ無意識、恐らくは烈魂が意識しているのだろうが、抜身になったままの刀で暗空の手を狙う。余り得意では無い籠手が、面白いように綺麗に決まった。あの凶器の大刃が手を離れ、宙を舞う。
「楽しい」
馬鹿だとは思うが、楽しくてしょうがない。あんなに言う事を聞かなかった体と刀が、今こうやって思い通りに動くのだ。更に続けて、刀背で相手の胴を思い切り打ち抜く。一瞬暗空は嗚咽の表情を見せた。
“今だ、逃げるぞ”
「待って。あの・・・あの若者も」
“?・・・そうか、よし、彼を掴め。そして思い描け、お前自身が風になって、全てを包み込みこの森を颯爽する姿を。――お前は、風だ”
「風――」
 不覚にも膝を折った暗空を他所に、屏陣丸は鳶飛目掛け、走る。昇る蒸気のような白い光、それが屏陣丸の体から流れていくのだった。長い事眉を顰め全てを訝しがっていた鳶飛、今も未だ、何も理解できないでいる。死まで覚悟した自分の前に現れたこの白い若武者は一体何なのだろう。殺し屋『吟喃』相手に喧嘩吹っかけ、何も出来ずに負け、と思いきやの勝利。本当に、何なのか。
「君、早く手を!」
その若武者が手を差し伸べた。間近でみるとその身が良く光っている事が分かる。白金、白金の風、その手は澄んで――  考えるよりも先に、思わずその手を握る。

 白金の風は鳶飛を包み、白を流しながら森を走り抜けて行く。信じられないほど速く、驚くほど心地良く、足は止まらない。人一人の重さも全く気にならず、鳶飛の手を引いたまま、屏陣丸は風に吹かれた。




 森を抜けた先に広がる一面の平地。また何も無い処に戻ったようだ。空は晴天、決して暗くは無く、心地良い陽射しを受け風が吹いていた。
屏陣丸は、脚を止めた。身体に纏っていた白金の風光は、次第に胸の勾玉に集まり呑まれていった。また以前の安っぽい鎧の色が戻る、名残惜しい。胸の勾玉を軽く弄くってみた。彼は、此処に居るのだろうか。
“ああ居るぜ、未だ当分、封印が解けるまで。実質お前と精神を混ぜないと動けないからな、宜しく頼むぜ相棒”
「そんな勝手な・・・当分って、どれ位?第一、封印だなんてどんな悪行を・・・・」
“どれ位掛かるかは知らない、善行を重ねればその内、か。・・・悪行?俺は何もしてない。ただ・・・お前ら『光の者』を贔屓ひいきし過ぎただけだ”
「贔屓?」
“そう。その昔、百年以上ぐらい前か、俺は光の者達に『和魂ニギタマ』という武具を与えた。だが如何せんその力は大き過ぎた。調子よく三つも地上に投下した俺は、光と闇の調律、世界の秩序とやらを乱し、結果御上に叱られて封印だ。
・・・・まあ、お前に拾われて良かった。で無きゃ一生畑にでも埋まったままだったろう”
「へえ・・・・良く、解からないけど・・・・」
 百年以上前、というと一体どの位封印とやらを受けているのだろうか。天界、というものは自分達と時間の感覚が異なっているのだろうか、どちらにせよ長い時である事は変わりない。その間ずっと耐え続けてきたこの声の主を、少し可哀想にも思う。
「お前・・・・先から一体誰と話してんだ?」
 あ、と間抜けに声を出し気付く。横に放り出されている一人の血に薄汚れた自分と同い年位の若者。ずっと手を引き、何時しか忘れていたようである。相手を威嚇するように滾った彼の眼は、先程から如何にも当惑の表情だけを覗かせていた。まあ、無理も無いのだろうが。
「え?あ、いや、その・・・・そうだ!大丈夫か?」
全身にこびり付く硬化した血。頬を始め細かな傷が目立つ。あの大刃の小太刀は彼を深くは傷付けてはいなかった様だが、その傷は余りにも多すぎる。
「別に之ぐらい何でもねえ・・・・手前、何で俺を助けた?手前は誰だ、何でそんな力を使える?」
やけに威圧的な口調。
「何でって、危なそうだったから・・・この力だって、俺だって良く解からないし。先から自分自身困惑してんだよ!」
そう、自分自身当惑している。天界武人の入った勾玉、白金の光、風。何が何だか、分からない。
「余計な事しやがって、手前、自分が一体何したか分かってんのか!?天宮最凶の殺し屋『吟喃』を全部纏めて敵に回したんだ!それが如何いう事か、分かってこんな真似しやがったのか!?」
「な・・・・何だよその言い草は!如何いう事かなんて、んなもん知るか!眼の前で人が殺されかかって、それを見なかった事にしろってか?そんな事俺にはできないね!だから助けた、怖かったけどな!文句あるか!」
「・・・・もう良い。悪かった、素直に礼を言う」
急に荒げた声色を沈め、若者は軽く一礼する。じゃあな、そう告げると、男は背を向け歩き出した。
「ちょっと待てよ、何処に・・・・」
「俺に関わるな。之は俺の問題だ、首突っ込むんじゃねえ、いずれ死ぬぞ!――皆、俺が頭を殺したもんだと思って、躍起になって追っている。相手は鎖を失った『吟喃』全員、頑駄無軍団だって下手すりゃ皆殺しだ。分かれ、俺に関わるな、頼む!」
「・・・・君は、本当は悪くないんだろ?」
「幾等言ったて誰も信じるわけが無い、俺はそういう男だ。やって無い証拠も無い。それに、『脱走』したのは事実、死罪に変わりは無い。だから、俺は死ぬ前に――」
若者はハッとした様に口を噤む。何を言いたかったのかは分からないが、そのまま再び背を向け、一瞥を向けた後歩き始める。近付くな、強い口調の無言の叫び。
彼の背が、どんどん遠ざかる。もし『吟喃』とやらに見つかりあのような目に会えば、彼は誰にも知られる事無く独りで逝くのだろうか。思わず、眼を細める。それは寂しすぎる。
だからかは知らないが、走った。

「何度言えば分かる?俺に関わるなと――」
「俺もこっちの方に用があるんだよ。文句あるか?」
「何処だ!?」
「破亜民我夢だよ!烈帝城に行く!君は?」
「・・・・同じだ」
「なら良いだろ、一緒に行こう。――俺は屏陣丸。君は?」
「・・・・・鳶飛、『歪矢礼手』の鳶飛」
「鳶飛か、よろしくな!」
満面の笑みで、屏陣丸は鳶飛を見つめた。綺麗な笑いである、鳶飛はそう思った。少なくとも自分の生きてきた世界には無い種の笑顔、綺麗過ぎて余り得意ではない。その笑顔に対して返せる表情を、自分は持っていないのだ。だから何も答えない、だが屏陣丸は不服とする事無く、そのまま前を見る。不思議な奴だ、そう思った。如何してこんなにも満ち足りた顔を造れるのだろうか。
“お前、中々面白いな。退屈せずに済みそうだ”
頭の中で響く、近しい『友人』の声。
(悪かったな。・・・・よろしく、烈魂)
“こちらこそ、屏陣丸”
 ふわりと、白金の風が吹きぬけた。




「畜生・・・」
 怒りを向ける先に困る。殺したくて殺したくてたまらない。衝動が全身を駆け巡り、この腕は戦慄いて止まない。ただひたすら愛器の小刀を乱立する木々に斬り付け、熱を冷ますしかない。
――『紅き竣功』と謳われた自分が犯した初めての失態
瞬殺どころか殺しさえ出来なかった有様だ。
「ガハハッ!情けねえなあ『紅き竣功』、失敗は処刑もんだぜぃ」
 背後から声。良く知っている、常にいらだった様な口調のこの男。年中首に西欧のマフラーなる襟巻きを着け、意味も無く爪切りを鳴らしている。見ると横にもう一人、全身を銀羽根のマントで覆った西洋兜の男もいる。片手には大きな旅行鞄。
「討々軌、それに、猟雅か。・・・何だ、俺の処刑か?」
不意に銀羽の男、猟雅がクスリと笑う。
「その決まり事は止めに為ったでしょう、殺しは楽しくやるのが一番だからって御頭が。クスクス」
「にしても滑稽、お前のあんな醜態初めて見たぜ。ガハッ、ハハハハ!」
ずっと見ていたのだろうか、ならば手を貸して欲しいとも思ったが、言うだけ無駄である。殺し屋『吟喃』、結束は固いが協力は緩い。
「しかし、困った事になりましたねェ。鳶飛の奴、とんだ化け物と」
「化け物、か。――触れる事すら出来なかった、あの白金」
思い出すたびに殺意が走る。そんな怒りに惑わされる自分をらしく無いとでも思ったか、御得意のクスクス笑い。
「如何する、今から追うか」
「サァ、私も命が惜しかったりしますから。クスクス。・・・そうですねえ、私、先回りします。道的にも、恐らく彼らは破亜民我夢に向かう筈です。ですから討々軌、貴方が二人を追っかけてください」
と、珍しく上機嫌だった襟巻きの男、討々軌の表情が一変、何時もの様に眉を思い切り顰め睨む。
「・・・・俺か?!俺一人で!?おま、ちょ・・・ふざけんなよ!俺が誰だか知ってんだろ!策謀専門・『詰霧つめきり』討々軌は誰かを使って初めて!その真価を発揮するんだ馬鹿!」
つまりは一人では役に立たぬと、そうとも取れる。まあこの男の場合面倒なだけなのだが。
 猟雅は続ける。
「もう直ぐ邇蔓が来まスので、彼とでも組んでください。少し頭の弱い奴ですから、フォローしてやって下さいな。好きにこき使って構いません、私が許します」
「邇蔓?・・・ああ『畏唾天いだてん』、あのビビリか。そうか、まあ、いいだろ。わ〜ったわ〜った、今から追っかけてくるわ、ゆっくり、な・・・・ったく」
そう残すと、如何にも面倒な顔付きで頭を掻き、誰かを追うには遅すぎる歩合で歩き出した。何時も深爪の指が握る爪切をカチカチと鳴らし、討々軌は森の奥へと消えていく。本当に、やる気の無い策士。
「行くのか、猟雅」
「もう少ししたら。でも彼よりは早いですから。クスクス」
 何時しか、日が落ちかかっている。あんなに輝かしかった木漏れ日も紅を覗かせ、そしてその内深遠たる闇へと変わるのだろう。その前にはこの森を出なければと、思う。
「あいつは――鳶飛は、本当に御頭を殺したと思うか?」
不意に出た言葉、ずっと思っていた、心の内。余り良い印象を懐いていたわけではなかったが、自分が刀を向けた時のあの表情が離れない。腐っても『吟喃』、何の覚悟も無しにこんな事をするだろうか。余りにも悲しそうな顔で無実を訴えるあの若人の顔は、痛い。
「サァ、如何でしょうねえ。でもそんな事如何だって良い事くらい、分かっているでしょう、暗空?私達は殺す事だけ考えてれば良いんです。だって、『吟喃』ですから」
くすくす、この男は何もかもが可笑しく思える。猟雅は笑い終えるとその大荷物の旅行鞄を持ち直して、歩き始めた。大きすぎる西洋兜がグラグラと揺れる。
「もし邇蔓に会ったら先の事言っておいて下さい。――それではまた」
「ああ」

 森の静寂が戻る。ただ独り、此処にいる。殺す相手も、何も無い。ならば自分が存在すする意味は何処にある?
握り締めた小刀は、一体今までどのくらいの血を吸って来たのか、紅き竣功たる名の所以、大量の血、血、血!だがそれに、一体何の意味があるのか。
(お前は、何がしたかったんだ?鳶飛よ・・・・)
 あんなにも居心地の良さそうだった場所を棄ててまで、あの若人は何処に向かうのか。自分には其処までするほどの価値のある事が見出せない。その分あいつは幸せ、なのかも知れない。
(逃げてみろ。馬鹿げてるが、生きてみろ)
 久々に溜息。大刃の愛刀をくるりと回し、専用の備え口に収める。改めて見ると、森は何処までも津々と続くのであった。
 暗く、暗く、何処までも。


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